私は生まれも育ちも東京。
生後8年は神奈川県川崎市暮らしですが、母方の実家が東京都大田区にあります。
ちいさいときから実家の祖父母に育てられたようなところがあり、
小学校も実家近くの小学校に入学。
1965(昭和40)年、小学校二年の三学期に川崎から大田区雪谷の実家に移住し、現在にいたります。
小学三年生になると、社会の授業で郷土学習がはじまります。
大田区の地形図が渡され、郷土の「かたち」を知ります。
その頃、東京湾は現在モノレールが走っているあたりが海岸線で、
大森付近の海岸線から飛び出すような格好で、
四角く縁どられた人工島がありました。
それが平和島です。
大森には「大森貝塚」という史跡があり、縄文の古代からこのあたりには
村落というか、人が集まって住んでいたと思われる場所がありました。
徳川家康が江戸に入城する以前、東京湾岸は一面の葦の原だったといわれます。
そのころ、東海道という道はなく、上方(京都)から江戸(武蔵のくに)にゆくには、
三浦半島から一旦房総半島に渡り、そこから東京湾岸を反時計回りに陸路を伝い
江戸城に向かいました。太古にはヤマトタケルが海を渡ったルートです。
このため、都(みやこ)に近かった房総を上総(かずさ)、江戸方面を下総(しもうさ)と呼び分け、
両者を結ぶ一帯を「両国」といい、そこに架けられた橋が「両国橋」とよばれたとか。
1600年、天下分け目の関が原の戦い。
以後、家康は江戸に幕府を開き、現在の東京の礎を築きました。
この時代を起点として数えると、首都東京は400年以上にわたり大胆な「都市改造」を続けてきました。
400年後には、この都市改造は「人為的」という言葉に置き換えられ、地球温暖化の「起源」であると注目を浴びるようになります。
「江戸前」という庶民風俗がいつの頃からいわれたのか、わかりませんが大森海岸一帯は「大森海苔」が江戸庶民に愛されたと教わりました。
「郷土の誇り」と小学三年生の時、担任教師に教わった記憶があります。
2021年11月3日、秋晴れの「文化の日」。
あてもなく平和島にある「平和の森公園」を歩いていた私は、突如現れた「人工山脈」(写真上)に懐かしい思い出が重なりました。
この山脈は、建築家・原広司(はら ひろし)さんの設計によるもので、
その斬新なデザインが話題を呼びました。原さんは、人工の都市環境の中にあって、自然を感じさせる「山々の重なり」を表現したのだと語っていました。
あぁ、なるほど、そうだったな・・・
と、私が懐かしく思い出したのは古都京都の景観を分断した原広司さんが設計した「巨大山脈」、すなわち「京都駅ビル」を思い出したのです。
京都駅ビルの建設計画が発表されると、古都のまちは騒然となりました・・・。
「古都の景観は誰のものか」という素朴な問いかけに京都市民の世論は完全に分断されました。
2021年 11月