あの日。
1945年8月6日 午前8時15分。
広島。
1945年8月9日 午前11時2分。
長崎。
私がこの世に生を授かる12年前のこと。
私の母方の祖父、祖母、父、母は日本を遠く離れた旧満州国で終戦の日を迎えた。
そのせいか、私は家族から原爆の恐ろしさを聞かされたことがない。
祖母は広島県福山市で生まれ育った。瀬戸内海の名勝・鞆の浦の近くの水呑という村の出身。 爆心地から離れているものの、広島生まれの祖母にとって広島はふるさとだった。 ふるさとの惨状について、一度も祖母から話を聞かされたことはなかった。
日本画家に平山郁夫がいる。 瀬戸内海の生口島の出身。15歳のときに被爆した。
平山郁夫の生涯は数多くの人々の知るところ。
残された数々の作品に一貫して流れる主題は「平和」であったと思う。
わたしが好きな平山郁夫の絵に、瀬戸内海しまなみ海道を写生した水彩画がある。
2003年の夏。
私はそれまで勤めていた設計事務所を退社し、祖母のふるさとである広島を中心に山陰地方をめぐる旅に出た。
東京から車で遠征した。
その折、尾道からしまなみ海道を渡り、生口島にある平山郁夫美術館を訪ね、しまなみ海道のスケッチ画集を買い求めた。
それから10年経た2013年の夏。
私は祖母と平山郁夫が過ごした瀬戸内の平和な風景を訪ねて旅に出た。
今度は車は東京に置き、夜行バスで尾道に向かい、到着した翌朝、尾道のレンタサイクルショップで手ごろなサイクリング自転車を借りて、
そこから2泊3日をかけて対岸の愛媛県今治をめざした。
旅館やホテルには泊まらない。
二人用のちいさな折りたたみテントと着替えの下着がわりにTシャツと水着に手ぬぐい、
それと少々の小遣い銭、
そしてポケットサイズのクロッキー帳とサインペン、お気に入りの色鉛筆数本、マグカップにアーミーナイフをリュックに詰め、深夜の新宿から瀬戸内海に向かった。
自転車を借りてすぐに尾道の港から最寄りの島へ渡し舟で渡り、そこからかずかずの島々を訪ねてまわった。
しまなみ海道は私の望んだままに、美しく、平和で、優しかった。
ベースキャンプはあるちいさな島のキャンプ場に設営した。朝は夜明け前にテントを抜け、しずかな海で身を清め、山に登りしまなみ海道を見渡せるスポットからスケッチした。
平山郁夫のタッチを真似したのは言うまでもない。
食材は前日に隣の島の商店でとれたての野菜とぶどうパンを買った。包丁もまな板もないのできゅうりもトマトも丸かじり。
朝食もそこそこ、私は愛車にまたがり、瀬戸内海の島々を訪ねてまわった。
ゆく先々で見たもの。
それはいつまでもこの自然を、島の人々の営みを、持続的発展させれば世界はきっと平和になるだろう、という漠然とした思いだった。
私に今で言う「SDGs」の概念が生まれた意義ある3日間だった。
「核のない世界」を願い始めたのは、その頃であったように思う。
2013年 8月12日