あの日。
2013年5月5日の夜明け前。
私は滞在していた村の中心部にある知人の別荘から歩いて1時間ほどの距離にある、旧知の日本画家の旧宅を訪ねて村道を歩いていた。
その旧宅は、人里から離れた山奥にあるのだけれど、以前は同じ村のはずれにある陶芸家の工房でよくお会いしたことがあり、
そんな時は画家のお宅まで車で送迎したこともあるから、道はよく知っていた。
その画家は、2年前の3.11の大地震によって居宅の裏山が崩れ、家の三分の一ほど土砂に埋もれたのだという。
幸い怪我はなかったが、長年手がけた作品が土砂に埋もれてしまって、仕方なく郷里の三春町に避難していた。
居宅の損壊具合から、住み続けるのは難しく、しばらく郷里に落ち着いたら、その後別天地を探して移り住むつもりだ、との話も陶芸家から聞いていた。
その旧宅の様子を知りたくて、夜明け前から歩いてきたのである。
別荘を出て30分は過ぎただろうか。やがて夜が白みかけた頃、うっすらと村道の脇に大きなゴミ袋が積まれているのに気がついた。
あぁ、ここにも除染隊がやってきたのだな、とその時は思った。
こういう光景は、福島県の浜通り地方(太平洋側の山間町村)一帯ではどこでも見かけるもので、震災から2年経過したその頃は日常的風景となっていた。
道は次第に坂道となり、ゆるいカーブ続きの山道になっていた。
やがて峠にさしかかり、「100m先工事中」の青い盾看板の脇を通り過ぎる。さぁ、そろそろ画家の家につづく脇道が見える頃だ、と視界が開けて畑が広がる光景が見えると期待した瞬間、
見えたものはこれまでまったく想像したことのない異様な光景が眼前に開けた。
その場にどのくらい立ち竦んでいただろう。気がつくと夜はすっかり明け朝陽が昇っていた。
誰もいないその広野で思わず叫んでしまった。
もうやめてくれ。
原発なんてたくさんだ。
ふるさとを返せ、清流を返せ、田畑を返せ・・・
どんなに叫んでも声はむなしくこだまして放射能に汚染された朝もやの空に吸い込まれてしまった。
核爆弾は大量破壊兵器である。
原発は核の平和利用といわれるが、これはウソだ。
原発は大量破壊施設に変わりない。
平和なふるさとも、清流も、人々も、家畜も、海の生物も一瞬にして破滅させてしまう恐ろしい施設だ。
もう、やめよう、こんな白々しいウソは。
この日から私の反原発運動が始まったといっても過言ではない。
「核のない世界」こそ、すべてを持続させる礎(いしずえ)である。
2013年 5月5日