雪谷町には、清家清さんの自邸として有名な「私の家」があった。
清家さんと私は少なからず縁がある。
私の父母は、マイホームを建てる前、清家先生の「私の家」を訪れ、先生のすまいを見学した、と聞かされた。
そのとき、両親を清家さんに紹介したのが牧野さんではなかったか。
私は清家さんが教鞭をとる大学に進むことになるのだが、
私は川崎市内の、ある私立大学付属幼稚園に通っていた。
そこにはおおきな木造の遊戯室があり、
その園舎の隣接地に私の進学した大学の学生寮が建っていたことを大学卒業後30年以上経ってからその学生寮OBから聞かされて知った・・・。
そのOBは、3階の学生寮自室から隣の幼稚園の「うつくしい先生」に魅入られていた、という。
その「うつくしい先生」に手を連れられて園庭で遊んでいたのは私ではなかったか・・・。
私の気づかないところで思いがけない邂逅(かいこう)がめぐっていたのである。
その後、家庭の事情により両親は川崎の家を売却し、私が小学二年の三学期に雪谷町の祖父母の家に転居した。
やはり木造平屋建てであった。通っていた小学校は祖父母の家から歩いて15分ほどかかったが、木造二階建ての校舎だった。
木造校舎、木造体育館とのふれあいは、中学を卒業するまで続いた。
幼少期の建築体験は、その後の私の建築設計におおきな影響をおよぼすことになる。
建築と私の履歴 1957-73年