17才の頃

 私は小中高の12年間、公立学校に通った。高校は赤坂見附にあり、山手線で通学した。
 五反田と目黒駅のあいだの外回り線側に「ポーラ本社ビル」が建っている。 毎朝車窓からそのビルを眺めるのが好きだった。 ビルのデザインに惹かれたのではない。ビルのガラス張りエントランスの向こう側にある朝陽を受けた鮮やかな緑の、 ちいさな「光庭」の空間に都会の中の自然の美を感じた。

 フランク・ロイド・ライトに魅かれた私は「建築学科」がある大学を受験した。 受験科目が少ないという理由で理系の大学ではなく美術大学を選んだ。 国立をめざしたが、私の「偏差値」では遠く及ばず、都内の私立美術大学の「建築科」に入学した。 なぜ「学科」ではないのか、と聞いたことがあるが尋ねられた助教授に「この大学には『学』がないから」とそっけない答えが返ってきた。

 入学祝いにおじからいただいた図書券で、迷わずフランク・ロイド・ライトの作品集と引き換えた。 1977年(昭和52年)のことである。

 建築の授業は「理論」と「実技」で構成されていた。 「実技」とは、「設計課題」があたえられ、学生は学んだ「理論」をもとに「設計・製図」で応える。 この繰り返しを4年(私の場合は5年)かけて卒業するのである。

 私は「理論」より「実技」が好きだった。 だから私の設計には「基礎」が欠けていた。 このため「1年生」を二度繰り返した。 卒業に5年かかった理由である。

 設計製図の課題は、1〜2年は「小住宅」や「ギャラリーつき喫茶店」など基礎的、小規模、身近な題材をこなす。 3年から次第に建築スケールが大きくなり「屋内水泳競技場」「ニュータウン・集合住宅」 「都市空間に建つ美術館」「建築専科大学キャンパス計画」というふうに大規模建築を手がけるようになる。
 そして4年の後半は「卒業論文」に代えて「卒業制作」にとりかかる。 フランク・ロイド・ライトに魅せられた私は、 当然のことながら課題の作品傾向も日本建築より西洋建築、それもアメリカのモダン建築指向が強かった。

日建設計副社長 林昌二さんのこと

 3年生の夏ごろの課題に「建築設計事務所が入居するオフィスビル」の設計があった。 このときは日本のモダンオフィスビルのデザインを採り入れた。
 そう、17才の頃、通学電車の窓から毎朝眺めていた「ポーラビル」のデザインを手本とした。 このとき、このビルの設計者が建築家・林昌二だと知った。
 林さんは日建設計という大手設計事務所の副社長だということも知った。 そして多くの大学教官を輩出した「清家スクール」の門下生だということもオフィスビル担当教官、平山達(ひらやま すすむ)助教授から聞いた。

 話は4年生の秋頃に飛ぶが、卒業を控えたほとんどの学生が就職活動に走り回ったころの話である。
 私は平山先生に就職先のことで相談した。先生は、私がオフィスビルの課題で 「ポーラビル」と東京瀬田にあった「住友スリーエムビル」を足して2で割ったようなデザインの作品を提出したことを覚えていて下さって
「日建設計を訪ねてみるかい?」
と声をかけたかと思ったら私の返事も待たずに大学研究室の受話器をとりあげ、日建設計の林昌二副社長に直接電話をかけて、その場で面接日のアポまで取り付けてしまった。
 その速攻にあっ気にとられた私は
「そんな、日建設計なんて就職できるわけがないでしょう」
と、抗議したが先生は
「林さんのところはすでに就職内定まで決まっているそうだが、 そんな条件でも『突っ張って来るのなら会ってやる』と言っていた。 がんばって来い」
と私を送り出したのであった。

 面接指定日の指定時刻に私は日建設計の応接室に通された。
 過去の設計課題の作品のうち、自信のある数点を選りすぐって持参した。 A1サイズのケント紙にインクで「美しく」描いた図面と着色パース(透視図)を持参した。 もちろん「ポーラとスリーエムビルを足して2で割ったようなデザイン」のオフィスビルは除いた。
 しばらく待つと役員と思われる男性二名を従えて林副社長が現れた。
 あいさつはさっと済ませ、履歴書を渡し、次に持参した図面集をテーブルにひろげた。
 林さんは黙って一枚ずつ作品をめくっていた。両脇の役員も黙って林さんの視線を追っていた。すべて見終えてから林さんは私を見つめて次のように講評してくださった。

君、図面を描いたこと、あるかい?
何も答えることができずにいるところに
残念だが採用は終わってしまった
と、たたみかけられ、未開封の履歴書を返された。

 私は尊敬する建築家がわざわざお会いして下さったことに深くお礼を申し上げ、ひとり応接室に残された・・・。
 ほろ苦い思いが残ったが、得がたい励ましのお言葉を頂戴したこと、今でもときどき思い出しては林さんに感謝が絶えない。

美大なんだからカッコいい建築をつくりなさい。
  構造なんてものはあとから
    専門の先生が考えてなんとかしてくれる。

 翌日、研究室の平山先生を訪ね、面接の報告をした。 先に平山先生から報告があった。
「昨日、坂井を帰した後に昌二さんから電話をいただいた。『構造がなってない。一体何を教えているのだ?』と叱られてしまった・・・」
私は平山先生の面目をつぶしてしまったことを今も深く反省している。

「美大なんだからカッコいい建築をつくりなさい。構造なんてものはあとから専門の先生が考えてなんとかしてくれる」
とは、二年生の秋に提出した設計課題「テラスハウス」の講評会のとき、 私の平面図を見た助教授(森下清子先生=清家研究室出身)が、 「この鉄筋コンクリート壁式構造は上下階の壁が重なっていないから構造的に不合理だ」
と指摘されたことに対して、森下先生の隣で私の作品を援護して下さった平山先生の言葉である。 森下先生の専任講座は「建築構造」であった。
 たしか、面接の日、その集合住宅の自信のあった着色パース(透視図)と一緒にひろげられた平面図を見た林さんの隣の役員が
「これ、構造的にもたない」
と、そっと林副社長に耳うちしていた。 おそらく構造設計担当副社長に就いている役員だったと考えられる。
 もともと私は日建設計に就職できるわけがないのである。

建築と私の履歴 1977-1982年

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少年の日の想い出は虹のように美しいという。
私にもそんな時代があったのかもしれない。

青春時代というのは、誰にでもほろ苦い思い出があるものだが、
歳月とともに美化されるようなところがあるのだろう。
芸術とのふれあい、建築との出会いを振り返ると美しい思い出が多い。

幼稚園時代からピアノ弾いた。
母から教わったが長続きはしなかった。

父はクラッシック音楽が好きでいつもレコードを聴いていた。
私は、洋楽ならクラッシックよりポップスが好きだった。

父は絵描きでもあった。アマチュアではあるけれど、私が頼むと好きな車や電車の絵を描いてくれた。絵は父から学んだ。

中学生になってギターを覚えた。
「クラシック」から入門したが、すぐに「フォーク」を弾き始めた。

中学二年のとき、「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」(So Long, Frank Loyd Wright)
という歌を覚えた。
建築家をめざすきっかけになった。


高校二年のとき、「月刊Playboy」の創刊号にフランク・ロイド・ライトの特集があった。
記事のタイトルは「悲劇太りの老人 フランク・ロイド・ライトの生涯」とあったと思う。
「建築家」に魅かれた。
彼の作品より、波乱万丈ともいえるその生き方に魅かれた。