建築家・清家清からまなぶこと

 1982年4月に都内新宿区にある金治建築設計事務所に就職した。 所長の金治重喜(かなじ しげよし)さんは東京工業大学大学院の清家研究室の出身で、 私の大学時代の恩師、平山達先生の先輩にあたる。
 私は清家先生から直接教えていただいたのは大学1年の夏休み直前の「集中講義」の四日間だけだったが、 その後めぐりあった「清家研究室の門下生」の先輩方に教わることが多く、 知らずのうちに建築家・清家清の思想というか作法のようなものが自然と身についていた。
 だから初めての就職先にもすんなりと溶け込むことができた。 清家先生との「ご縁」のおかげさまであった。

1990年 脱・コンクリート建築へ

 1982年に設計事務所に就職してから独立するまで約21年間、 設計実務において関わったのはほとんどが「コンクリート建築」であった。
 ちいさいものは公園のトイレから、
 住宅、別荘、
 アパート、マンション、
 学生寮に社員寮、研修所、
 小学校、中学校、体育館、プール、
 集会所、オフィスビル、ビジネスホテルからリゾートホテルなどなど。
 私のキャリアのほとんどがコンクリート建築で埋めつくされた。
 そのころから矛盾がうまれる。
「建てれば建てるほど地球がゴミで埋もれていく」
そう思うようになった。深刻な「環境問題」との意識が芽生えた。

 東京湾の埋立地や沿岸に近い軟弱地盤の地域では3階以上の中高層ビルを建設する場合、 支持地盤に到達する深さまで穴を穿ち、そこにコンクリートや鋼管を挿入し支持杭とする。 これを基礎としてその上に高層ビルが建設される。超高層ビルも同じである。

 首都圏の開発ラッシュとともにこれらの地域で急速に開発が進んでいた。支持杭の深さは30メートル以上、 長いものになると50メートルにも達する。

 スクラップ・アンド・ビルドが繰り返され、 コンクリート建造物が建て替えられると埋没された杭はゴミとなり地中深く取り残される。 1990年頃である。

 日本で原発事故が起きた後、 「オンカロ」という放射性廃棄物の処理方法を知ったときに似た「愚かさ」をそのときに感じた。

「もうやめよう、こんなバカバカしいことは」

と思った。 こうして私は急速に「脱コンクリート」の道を歩むことになった。

 そのころ私があたためてきた「自邸」=「私の家」構想は、 内外壁ともにコンクリート打ち放し仕上げのワンルーム住居だったが、 この構想を最後に私は「木造建築」の世界に傾倒することになった。

・・・こうして私は、「世界の安藤」(建築家・安藤忠雄)を追うことをやめたのでした。

「木を知れ」
法隆寺大工棟梁 西岡常一

 木造建築への思いを強めたのは構造設計家・増田一真さんに勧められた一冊の絵本でした。
 増田さんは、私の駆け出し時代(1982年)に入社した金治(かなじ)建築設計事務所の 構造設計パートナー。
 当時から若手設計者を対象に「構造ゼミ」を開講されていた方で、構造力学に対してとても柔軟な発想で意匠設計者に応えていました。

 1980年代といえば、高度経済成長期にあたり、設計事務所が手がける建築構造はほとんどが鉄筋コンクリート造か鉄骨造でした。 木造住宅などは、「大工が設計するもの」として一級建築士といえども十分な設計ノウハウを会得した人が少なかった時代です。

 そんな時代にあって増田さんは木造の秘めた可能性を追究して、いろいろなアイデアを「構造ゼミ」を通じて若手設計者に伝授していました。
 そして構造ゼミが開かれた1990年のある日、受講生に勧めた絵本が「法隆寺〜世界最古の木造建築」(西岡常一 宮上茂隆 共著 イラスト穂積和夫)です。
 増田さんがこの本を推薦した理由は、
・なによりもイラストがよく描けていて、わかりやすい
・日本人はどのように建造物をつくってきたか、あたらしい発見がある
です。

 この絵本をきっかけに、私は西岡棟梁の教えを請うために氏の著作物はすべて読みました。 私の木造建築に対するものの見方、考え方はすべて西岡棟梁の教えによるものとなりました。 その後の建築設計に対する姿勢が一変しました。

はじめての木造設計

 1994年秋。 小学校同級の友人から
「都内に土地を買った。 娘が生まれて現在住んでいる賃貸アパートをやがて解約する。 親子三人楽しく暮らせる家を建ててほしい」
 待望の設計依頼が舞い込みました。
 早速、目黒区にある17坪の土地を拝見。 1メートルほどの高さに造成された宅地でした。
南北の方角を確認して、さっそくその場でイメージスケッチ。
 そのプランを気にいっていただき、 私の勤務していた設計事務所と契約を結び、翌1995年の秋に完成しました。 1995年という年は1月に阪神淡路大震災があった年。 木造住宅の耐震性能が強化される契機となった年として記憶されることになります。

 バブルがはじけた頃、依然としてコンクリート構造物の大量生産が続きます。
 90年代に私が勤務していた設計会社では、公共建築物の指名型設計プロポーザル(設計提案競技)にも積極的に参加した。 小学校校舎の建て替えに伴うプロポーザルでは、国産材を多用した木造校舎建設の提案を行なった。 残念ながら提案は採用されなかったが中規模木造建築物の可能性を探ることができた。

 そのうち2000年頃に社内部署の配置転換があり、社長から営業職を命じられ、それまでの設計現場から渉外活動へ転じた。
 ある日、顧客である地元の不動産会社へ営業あいさつを重ね、 「新しい時代の建売注文住宅」プロジェクトを受注することができた。
 たとえば区画整理によって農地が宅地に換地され、 貸駐車場として利用されていた遊休地を一区画30坪計6区画に分譲し、 そこへ購入者の希望に沿った木造注文住宅を建売販売するプロジェクトであった。 いわゆる建築条件付土地分譲事業である。
 不動産会社は設計事務所を連れて、一軒一軒の宅地購入者のお宅にうかがい、 細かい要望を聞き取り、 簡単な間取りと外装デザインを手がけ、そのスケッチをもとに実施設計と施工は大手商社が出資する建設会社に発注し、 建物完成後に不動産会社が土地購入者に引き渡すというもの。

 このプロジェクトは好評で、ひきつづき近隣地域でふたつめのプロジェクト受注に結びついた。 次第に私は木造住宅の設計ノウハウを覚えていった。

設計事務所設立へ

 不動産会社から注文建売住宅の基本設計の受注はその後も続く。
 そして不動産会社が所有する小規模宅地を二区画に文筆して 不動産会社の直営施工で建売販売する、純粋な「建築条件付宅地分譲」事業である。
 不動産会社の社長からは「事業予算に限りがあり、建設費も設計費も厳しい」事情を打ち明けられたが、よろこんでお引き受けした。 ところが受注したことを設計会社の社長へ報告したところ、
「なぜそんな小さな、しかも設計料の安い物件を受注したのか。そんな安請け負いの仕事ではお前の給料は払えない。新卒にやらせろ」
と叱られてしまった。

 まもなく私は、その設計会社を飛び出した。 2003年7月のことである。

 独立のため開業準備をすすめ、その年の12月25日に「坂井忠平一級建築士事務所」として東京都に登録した。 2003年のクリスマスは、めでたく私の独立記念日となった。

建築と私の履歴 1982-2003年