江戸に帰ろう

葛飾北斎
 江戸の風景
  愛宕山から富士をのぞむ

首都 東京
港区愛宕山(あたごやま)。 標高約26メートル。
 山頂には愛宕山権現が鎮座し、 明治初期までは、 東京湾はおろか、房総・三浦半島まで遠望でき、 丹沢山脈の背後には、富士山が聳えていたという。
 北斎は江戸からのぞむ富士の姿を愛したひとりだ。

 北斎の描く富士を江戸町民は愛した。

景観論争

古都 平安京
四神相応の地として栄華を誇ったいにしえの都。
桓武天皇は風水に最適の地として都を移した。

すなわち、
背後の北には山があり、
東には川がながれ、
南方の湖、沼にそそがれ、
西方に文明の大路を通す、
こうした地勢を古代の都の理想とした。
自然と共生しながら繁栄する都市計画の理想がすでにあった。

 明治維新によって都は東京に移ったが、明治・大正・昭和と京のみやこの景観は永く人々のこころのふるさとであった。

 時代は平成に移り、突如人為的環境破壊がおこった。
 京都駅に巨大な山脈が隆起して古都じゅうが大騒ぎとなる。 いわゆる「景観論争」である。
 京都の寺門・檀家衆が環境破壊反対に一斉蜂起した。

都市景観はだれのもの?

 このとき反対派の相手方として立ちはだかったのは 巨大山脈「京都駅ビル」の施行者と許認可権者であるJR京都駅ビルと京都市だった。
 公共の財産ともいえる古都の景観を守ろうとする側と観光都市として地元経済を繁栄させようとする側の主張は平行線をたどった。

 観光都市の顔、あるいは表玄関として駅の整備が急務だったのはわかる。 そのため京都駅ビルの計画は1階が在来線、2階に新幹線を通すというものだった。

 私が首をかしげたのは、 土地利用上、容積率において余った駅の上部空間を「有効利用」するために 商業施設、ホテル、イベントホール、駐車場の複合用途を 高層ビルに立体的に構成した建築計画にある。
 「何も古都の景観を分断する山脈のようなビルを建設する必要はないだろう」というのが私の感想だった。 私は反対派側に立っていた。

 駅ビル推進派は、
 「容積を余らす建築計画などもってのほか。余すところなく利用して最大限稼ぐ」
 という論理で とうとう反対派をねじ伏せてしまった。

 施行する側、反対する側、それぞれが大切にするものは「国際観光都市・京都」ではなかったか。

 千年にわたって守られてきた古都の景観を「経済効率」という現代のエゴによって破壊されたかなしみは深い。

 人為的活動によって改造された景観を元に戻すには、人為的工作物を撤去する以外に方法はない。これは可能だろう。

 翻って首都東京。
 日本橋の景観を戻すには、頭上を走る首都高速道路を撤去すればいい。 その簡単なことができないところが「人為的活動」のエゴだと思う。

江戸にかえろう

 現在の東京港区愛宕山。

 こちらは「ヒルズ開発」によって景観改造が進行中である。
 聞けば近隣の赤坂に「アークヒルズ」を開発したのを皮切りに 都内のあちらこちらの「丘陵開発」に邁進し、 国・都による打ち出の小槌「規制緩和」という追い風を受け、 2020年の東京オリンピック開催の年には「虎ノ門ヒルズ」なる名峰が聳えていた。

 その南側では、新たな名峰「虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワー」がまもなく完成する。
 ヒルズやタワーには「ヒルズ族」が居住し、近隣庶民との経済格差という断崖を築く。 その絶壁からの眺める360°のパノラマすべてがわがもののように映るだろう。

 江戸時代に眠る北斎が現世に目覚めて愛宕山に登ったなら
「富士はどこだ、ワシの絵を返せ」
と目をまるくするだろう。

建築家と都市計画

 京都駅ビルの設計者は国際コンペで選ばれた。
「景観論争」の火種は建物のデザインではない。 問題は、誰が設計しても高層ビルにせざるを得なかったその「プログラム」にある。

 もともと「駅」だったところに文化施設と称してさまざまな用途と面積がコンペ応募要項に決められていた。
 建築家のフリーハンドで規模が決まったわけではない。

 都市景観という公共財産が、 民意によらず施行者と権力者の恣意によって良くも悪くも左右されるという、 現代の都市計画の弊害が噴出したのが、京都駅ビルをめぐる論争の本質であったと思う。

 そうした弊害が、愛宕山に限らず、赤坂、六本木、仙石山、けやき坂、表参道、麻布台、永田町、
・・・いたるところの丘陵(ヒルズ)各地でおこり、 江戸のどこからでも見ることができた都の地平線・稜線はことごとく消滅してしまい、霊峰富士も姿を消してゆく。
 もはや元に戻ることができなくなるところまで景観は改造されてしまったといえる。

 都内には現在でも「富士」を冠する地名が残る。
  富士見町
  富士見が丘
  富士見坂
  富士見橋
  ・・・ 林立する建物によって富士山が見えなくなってしまったところもあるだろう。

 私が住んでいる街の近くに馬込山がある。 ここに登ると今でも晴れた日の朝夕に富士が遠望できる。
 そういえば、縁起物
  一 富士、
    二 鷹、
      三 なすび、
とは家康の好物を順に並べたものだという。 家康が現代の東京をみたらきっと
 「ワシが築いた江戸を返せ!
    ワシの初夢、富士を返せ!」
と目をまぁるくして、口もとに はこんだ茄が箸からこぼれ落ちてしまうかもしれない。

 もうこれ以上、住民間で「富士を返せ」「眺望を返せ」「太陽を返せ」といった不毛な論争が起きぬよう、 特に官民問わず「都市開発事業」の関係者には、 くれぐれも庶民のこころに寄り添っていただきたい、と切に願います。

「規制緩和」という名の打ち出の小槌は、一方を利し、他方に弊害を押し付ける不公平な政策だと私は思う。

2021年 11月

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