福島・川内村 陶芸と木工
土志工房(としこうぼう)
自然のぬくもりをお伝えする里山の工房です。
古民家窯元の歳時記・・・
12月31日(土)
ゆく年・・・2011
2011 春。
「残された花々」展
2011 3月11日
数日後 川内村は無人になった。
無人の村にも花が咲く。
2011 夏
以前に体調を崩し病院生活を余儀なくされたとき、
石か花を描いてみたいと思った。
そのうち、今はまだ・・・と石はあきらめ、花だけを描くようになった。
もし無事に退院できたら、花の展覧会を開いてみたいとも思った。
そんなことで今日まで花を描き続けることになったが、図らずしも3月11日以降、
これほど多くの花と向き合うことになるとは思ってもみなかった。
2011 夏
川内村に来た時、わが家は草もない石とや山砂だけの埋め立て地だった。、
山砂の地に砂を入れ、少しずつ木や草花を植えた。
20年過ぎて今は鬱蒼としている。。
その地でこんなにもいろいろな花が咲くようになるとは、今更ながら驚く。
今、その草や花に生かされている。
2011 夏
大地震から5カ月が過ぎた今も震度4〜5の余震が続いている。
だが花を描いている時はすべてを忘れている。
花の命は短い。
夏の花は特にそんな気がする。
目の前で
崩れ落ちる。
2011 夏
私の表現力は乏しく、自然界の成り立ちを表すことは難しい。
それでも向き合っていると、自然の微細な一部が見えたりする。
そういう時は素直にうれしい。
今もなお、空はあくまでも澄み、不吉な色も匂いもなく、
それなのになぜ、村から人の姿が消えているのか
私はふと、分からなくなる。
2011 初秋
あぶくま高原にあるこの村の夏は、都会と違って涼しくて過ごしやすいと思っていたが
今年は7月や8月に川内村に帰ると、ストーブに火を入れたり、セーターを着ることがあった。
これはどうやら自分の体調のせいだったらしい。
身の周りの花々は夏から秋へと姿を変えている。
萩やすすきが目につくようになり、あざみもちらほら。
だが村に稲穂の影がない。
2011年 黄金色に染まる秋は村には来ない。
2011 秋
川内村から30キロほど離れたところに私の生まれたところがある。
そこに父と母も眠る。
その町は福島県双葉郡浪江町。
3月11日 地震と津波 そして原発事故とおおきな被害を受けた。
いつになったら町は再生できるのか。
それとも二度とよみがえることはないのか。
そこに私のふるさとはある。
2011 秋
花と向き合っていると すべてを忘れる。
今、決してからだの調子がいいとはいえないので できればゴロゴロしていたい。
でも花はとどまらない。
命を次につなげてゆかなくてはならない。
その輝きはほんのわずかな時間しかない。
花と向き合っている時はすべてを忘れなさいといっている。
2011 秋
幸い20キロ圏から少しはずれたので、たまに川内村に戻ると体調がよくなる。
そこはあたかも花たちが もう少しここにいて
誰もいなくなった村でも懸命に咲く私達をもっと見ていて下さい
といっているかのようである。
もしかしたら私は花たちに乞われて村にとどまっているのかもしれない。
2011年の今の川内村の花々の証人として。
2011 秋
今、毎日のように花を描いている。
雨の日もあれば風の日もある。
ときには夜になることもある。
花のスケッチの場合、雨や風の中で描き続けることはできない。
切り取って命をいただくことになる。
2011 秋
東日本での震災があってから半年になろうとしている。
もうすぐ十五夜になる。
春夏秋と描いてきて、身の周りにいろいろな花が咲いていることを
あらためて見つめなおすことができた。
そうしてあれもこれもと思っているうちに間に合わなくなった花もあった。
その中でも避難のどさくさにまぎれて桜の花を描くことができなかったのは、
少し心残りだった。
来年もまた花は咲いてくれるのだろうが
2011年の春の花々は二度と咲かない。
2011 秋
この半年間
前半は災害にまきこまれ、後半は体調にめぐまれなかった。
でもどちらも花を描くのには問題はなかった。
ほとんど毎日のように花を描いていても飽きることはなかった。
日課になってくると描くものがなくなるととても淋しくなってしまう。
川内村に帰ろう、と思う。
2011 秋
体調を崩して4年、その間花を描き続けている。
かなりの枚数を描いているはずだと思うのだが、
自己採点をしてもこれといってうまくなったという感じはない。
もし私のスケッチを見ていただける機会があるとするなら、身近な花々なので、
絵を見て名前など思い浮かべてもらえるなら、それで成功と言えるかもしれない。
私のスケッチはそれでいいと思っている。
2011 秋
夏草の盛りも過ぎ、今、ススキと萩が目につく。
秋の日はつるべ落とし暮れるのが早くなり、月明かりが一段と冴えてきた。
避難指示が解除されたわけではないが、
この村にもわずかながら点々と灯りがともりはじめている。
私もその灯りの一つとなって花を描いている。
できればこれほど花だけを描き続ける状況が一日でも早く終わってくれるように願っている。
2011 秋
初めは半年から一年の避難生活が余儀なくされるかもしれないと漠然と思っていた。
その半年が過ぎてしまった。そうしてまた一年が過ぎるのだろうか。
事故当時、電話も新聞も途絶え、どうにかテレビだけが情報の源であり、
何が起こっているのかはそれなりに把握はできても、車にガソリンもなく、
娘にも連絡はできず、身動きができなかった。
そのうち、全村避難指示が出た。
今、私は体調の都合で、一時帰宅のはずが、村の滞在が長くなってしまった。
これで誰にも見られることのない花を描けるかもしれないと思った。
2011 秋
昨日7時のニュースを見ていたら、川内村と大きな文字が映り、村長さんが出ていた。
そこで来年三月までに全村民が川内村に帰れるようにしたいという内容の話をされていた。
私の「残された花々」のスケッチ誌もそれと同時に終結してくれればいいと切に思った。
2011 10月
私の父は、南相馬市小高区で生まれた。
母は、双葉町で生まれた。
そして私は、両方の町の中間、浪江町で生まれた。
父も母も花が好きだった。
さ程広くない庭に多くの草花を育てていた。
そんな中で私は生まれ育った。
その町は今、
重い課題をつきつけられ
苦しんでいる。
2011 10月
2011.3.11の地震の後、川内村にも不穏な空気が漂っていた。
それは最寄りの駅舎が流されたとか、
津波が国道を越えたとか次々と情報が入る中、
なにか不気味な予兆をはらんでいた。
かなり激しい余震の中でそれは、現実のものとなった。
原発の爆発であった。
隣りの町から、村の倍以上の人が、川内村へ逃げ込んできた。
さらに爆発が続き、避難してきた人たちは更に、我々もまた、村を離れなければならなくなった。
私はその時、家の庭に咲く花をひとかかえ切り取り、
荷物で一ぱいになった車に積み込むことにした。
それがこの、花の絵画展の始まりである。
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